表現するプロセスで愛着を持つ。自分ごとになる。

コンピュータと手を行き来する体験

昨年から今年にかけて、高校生を対象としたものづくりの授業に関わらせていただきました。全6回、それぞれ約2時間半の連続授業です。

私たちの生活の色々なシーンに使われ始めているIoT(Internet of Things モノがインターネットに直接つながる仕組み)をテーマに、まず仕組みを考え(MESH™という、プログラミングの知識がなくても使えるIoTブロックを使いました)、それを段ボールなど身近な材料で試作してみることを行いました。次に、それを実際に、より使いやすいデザインにすることを考えました(課題を変えたグループもありました)。3DCADを使って形をつくり、それを3Dプリンタで出力しました。課題は、学校生活や家事など、比較的身近なものをテーマに選んで、グループで話し合いと制作を進めてもらいました。生徒達は、コンピュータ上で考えたものを自分の手でつくり、またそれをCADでデータにした後、3Dプリンタを通して物体として手に入れる、という、コンピュータとその外側を行ったり来たりする体験をすることになりました。

 

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振り返ってみると、この体験は頭の中のイメージを取り出す行為にも少し似ていますね。授業の前半、段ボールで試作した時も生徒達はすごく楽しそうでしたし、後半、3Dプリンタで出力されたものを前に、生徒達の顔がぱっと輝いていたのは、なんというか、理屈じゃなく、実体にする喜びってあるんだなあと感じた瞬間でした。

 

愛着を持つ。自分ごとになる。

そして1年間授業に関わらせていただき、一番うれしかったのは、生徒たちがだんだん、自分達がつくったものに愛着を感じてきているな、ということがわかったことです。自分が関わっているものに愛着を持つと、ここをもっとこうしたい、という気持ちが内側からわいてきます。はたから見ていて、もう充分素晴らしい作品だと伝えても、この部分に納得がいかないから、と時間ぎりぎりまで作り直している姿や、振り返りで、ここがどうしてもうまくいかなかった、と書いてあるのを見て、授業に関係なくこのプロセスが自分ごとになったんだなぁ、と思いました(このねばりに最後までお付き合いいただいた担当の先生に感謝しています)。

 

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自分の手で何か表現してみることには、これまで書いてきたように、考えを整理したり、色々な角度から考え直したり、アイディアを他の人に伝えたり、また他の人からフィードバックをもらったり、という効果に加え、そのプロセスを通して、取り組んでいるテーマがぐっと自分に引き寄せられ、愛着を持って仕上げていけるようになる効果があるように思います。教育現場においてこの体験を実現するには、やはりアート、表現活動が一番適しているのではないかな、と思うんです。(その表現における個性、という部分については、また次の機会に書かせていただければと思います。)

 

※一部生徒作品の写真を使わせていただきました。具体的な授業の内容についてはまた別の形で共有させていただきます。

 

#STEAM #アート教育

イメージを、さらして、とくして、前に進もう。

「とりあえず表現する人は、羞恥心が足りない?

前回のブログでは、それぞれが頭の中のイメージを表現するメリットとして、もったいないという書き方をしましたが、もう少し本人のメリットにフォーカスして考えてみたいと思います。

 

私は大体のことについてとりあえず話してみる、やってみることが多いです。熟考されていない状態でとりあえず表現すると、無視されたり批判されたりすることもあります。あー、もう少し考えてから表現すれば良かったかな、と思う事ももちろんありますし、色々言われることがわかっていても表現するのは、人よりも羞恥心が足りないからなのかな、と思う事もあります。でもまた次の機会があれば、とりあえず表現してみる。それは、自分自身がその行為によるメリットを感じているからにほかなりません。

 

知能観の違いが、行動にも影響を与える

このもやもやした思いをクリアにしてくれたのは、「成長的知能観」「固定的知能観」という定義です。2017年11月に、同志社女子大学現代社会学部 現代子ども学科の上田信行先生のゼミを見学させていただいた際、教えていただきました。これは、心理学者であるキャロル・ドゥエック氏の認知的動機づけ理論における定義で、上田先生によると、大人も子どもも、それぞれが持つ能力観により、大きく2つのグループに分けることができるそうです。1つは「成長的知能観」つまり知能は成長すると考えていて、努力次第で伸ばしていけると考えるグループ、もう1つは「固定的知能観」つまり知能は伸ばすことができないと考えているグループで、成長的知能観の持ち主はチャレンジが楽しいと思い、「固定的知能観」はチャレンジが怖いと思うそうです。

「固定的知能観の人は、今自分がどれだけ知的かということに価値を置きますから、能力が高かったら示したいし、そうでなければ隠したい。成長的知能観の人は、今の自分の能力より、これからどれだけ勉強して成長できるかどうかに関心があるので、失敗をおそれず、チャレンジする。なのでみんなが成長的知能観になって、チャレンジが楽しいと思いだしたら、学びの場は必然的にとても楽しい場になるんです(上田先生)」

同じ状況に向き合っても、前提となる知能観によって行動が変わるということに、とても納得できました。

 

この視点を持って周りを見渡してみると、見えてくることもありますし、先に挙げた羞恥心という話と、少し関係しているのではと感じることがあります。人に「あなたそんなことも知らないんですか」という言い方をする方は、大体において固定的知能観ではないかと個人的には感じます。その言葉の裏には、知らない=恥ずかしいという無意識のつながりがあり、他人も同じことを感じるだろうと思っての発言なのでしょう。でも成長的知能観の人はそれをあまり恥ずかしいと思っていないから、響かない。逆もまたあって、成長的知能観の人が「どうしてなんでも言って良い場なのに、発言しないんだ」と言っても意見が出ないときは、固定的知能観の人が、それで発言した結果間違っていたら恥ずかしいと思っている可能性があります。前提からすれ違ったコミュニケーションですね。(私は心理学が専門ではないため、この解釈については個人的解釈としてお読みくださいね)

 

 

さらして、とくして、前に進もう。

頭の中のイメージを外に出す際に、もし、間違ったら恥ずかしい、と思ってしまったら、そう感じるのは、全員じゃない、と思いなおすと、出しやすいと思います。そして、誰かがそれに対して意見を出してくれた時、正解をもらうという姿勢じゃなくて、新しい視点をもらうという姿勢になれたら、すごく得した気持ちになれますよね。以前上田先生にインタビューさせていただいた時、上田先生がその場でSTM(さらして、とくして、前に進む)というシステムを考えて教えてくださったのですが、アイディアを表現すると得するというのは、こういう事じゃないかなと思います。「表現者:こんなのどうかな? 受け手:いいね!」みたいな形で、アイディアの受け手も、一緒に面白がり、新しい視点を追加する姿勢で対峙できたらいいですね(自分のアイディアをなかなか出さない人は、他人の意見にも正しいことを言わないと、と気負う傾向にあるので)。

 

成長的知能観、固定的知能観については、上田信行先生と中原淳先生のご著書「プレイフルラーニング」をぜひお読みください。

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https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen6edu/play_learn/

 

また、STM誕生の瞬間については、こちらのインタビューをぜひお読みください。

http://arts.hatenablog.jp/entry/2017/12/09/075059

 

#STEAM  #アート教育

アートにおける、手の役割

頭に浮かんだイメージを取り出そう

頭に浮かんだイメージを取り出すことも、アートの重要な役割です。

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その表現は平面、立体、文章、映像、音楽など様々で良いと思いますが、とにかく頭の中のイメージを取り出してみると、色々なことがわかります。

 

私は脳や知覚の専門家ではないため、経験上おそらく、ということしか言えませんが、アイディアをいったん自分の体から切り離して眺めることで、客観的になり、様々な角度から見る事ができるようになるからでしょう。例えばイメージしきれていなかった部分に気が付き、手を加える必要も出てくるでしょうし、全部壊して作り直すのもありです。

 

アートやデザイン、建築の世界では、こうした作業を「スタディ」と言います。「学ぶ」と同じ“study”です。例えば、 建築の模型の中でも、つくりながらその形を決めていくためにつくる模型を「スタディ模型」と呼んだりします。手を動かしながらイメージを形にしていく、そのプロセスこそ学びというのかもしれません。

 

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目と手の乖離をどうとらえるか

この「まだ全体が定まらないけどとりあえず形にして手を加えてみる」という行為を、難しいと感じる人が一定数います。イメージは無いわけではないのに、いざ自分の手で何かを作ってみようとすると、うまくいかない。目と手が、こんなにも乖離しているなんて。。。

 

この衝撃的事実に気が付いた時に、見なかった、または気が付かなかったことにして、受け手、評価者の役割に回ってしまう人もいます。誰かがつくってきたものには、もっともらしい意見を言い、改善策も提示できるのに自分から「スタディ案01」は絶対に出さない。

 

こういう話を聞いたり、そういう場面に出くわすたび、私は強く思う。それは本当にもったいない。本人も、周りも、絶対に損をしている!と。

 

こうなる理由はいくつかあると思われますが、その一つに「最初から高いクオリティを求めてしまう」ということがあると感じます。色々なメディアを通して、ものすごい量の情報にさらされている私達は、知らず知らずのうちに、かなりモノを見る目が育っています。瞬時に良いものを選ぶことができ、それらしい評価をすることもできる。だから、自分のことも同じ目で評価し、手を動かす価値なんてないと思ってしまう。

 

でも。私達が見ているハイクオリティなモノたちは、最初からハイクオリティだったわけではないんです。それらが辿ったプロセスは様々で、時にはそのプロセスがとてもまっすぐだったように見えるかもしれないけど、ほとんどの場合、そこにはたくさんの寄り道や失敗や試行錯誤があるし、そうやってたくさんの無駄の中から選ばれた一つが、時間をかけてクオリティを高められているのです。それが自分で手を動かして作ったことがある人にはわかるし、見えるようになります。目と手の乖離は誰にでも起こることだと認識し、つくりながら、手と目が対話を繰り返していったらいいんじゃないかなあ。それに、知らない誰かが作ったハイクオリティなものより、自分がつくったもののほうが意外と自分には良いもの(デザイン的にも機能的にも)だったりするものです。

 

手触りのある実体がひらく可能性

そして、あなたの頭の中にあるイメージは、あなたが取り出してくれないと、見る事ができません。そして、あなたがそれを取り出してくれたら、それはあなただけでなく、みんなで見ることができるし、お互い見せ合うこともできます。

 

それは、2次元で良いのか、3次元が良いのか。最初に書いたように、基本的にはどのような形でも良いと思います。PC画面の中だけでなく、手ざわりのある実体として存在していることの効果もありそうです。昨年の4月にこのブログでご紹介した本「FABに何が可能か」では、何かをつくり「見える化」「触れる化」することで自分の思いを整理し、人と議論できるようになり、ものづくりには製品開発でも作品制作でもないもうひとつの可能性があると、田中浩也先生が書かれています。手はつくるだけでなく、触れるという行為でも、重要な役割を果たしていそうですね(清水葉子)。

 

 #STEAM #アート教育

 

知覚を再定義するアート!

前々回のブログで、サイエンスからジャンプする時のアートの役割について触れました。今回はその中でも、視点の発見、知覚の再定義という部分にフォーカスして書いてみたいと思います。

 

「日本人の目」を手に入れたゴッホ

2017年8月~2018年3月、北海道、東京、京都で行われていた「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」という展覧会、御ご覧になりましたか?私は最後の開催地である京都で、ぎりぎり、見ることができました(見られて本当にラッキーだったと思います)。

 

この展覧会のみどころは、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853 - 1890)が日本の浮世絵の色、描き方や構図に感銘を受け、自身の作風に取り入れていった様子が、浮世絵と対比しながら鑑賞できたところでした。浮世絵の、地平線の位置が高いとか、木が画面を分断するように中心に描かれているとか、輪郭がしっかり描かれている、雨が線として描かれている、などという技法は、ゴッホを含め、当時のヨーロッパの印象派の画家たちに衝撃を与えました。

ゴッホが晩年にアルルで描いた「The Shower」高い地平線の位置や木を真ん中に持ってくる構図が、浮世絵の影響を強く受けていると言われています。

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The Sower Vincent van Gogh (1853 - 1890), Arles, November 1888 Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

 

 

印象派と呼ばれる画家たちが追求していたのは、ものの新しい見方、表現の仕方でした(印象派以降、といったほうがいいかな)。彼らが活躍した19世紀後半は、すでに写真機(カメラ)が普及しはじめていましたから、画家たちは、写真を超える表現を追い求めました。写真には写りきらないその場の空気や風の流れ、光の繊細なきらめきなどがどうしたら表現できるか、研究と実践を重ねたと言われています。ゴッホが弟のテオにあてた手紙に「私は日本人の目を手に入れた」と書いているように、日本の浮世絵が彼らに提供したのはさらなる「新しいものの見え方」だったのです。

 

印象派って、描かれた当時は新しい、時に新しすぎる表現で、その絵が評価されるまで時間がかかった画家も多かったといいます。ゴッホのように、生きている間はほとんど絵が売れなくても描き続けるエネルギーの源泉は、新しい視点を得て、それを形にする喜びにあったのかもしれません。

 

アートは、終わりのない探究の旅

2018年4月~6月にすみだ北斎美術館で行われた「変幻自在!北斎のウォーターワールド」では、北斎が、波や滝の描き方を何年にもわたって追求した様子を知ることができました。ゴッホが憧れた浮世絵画家たちもまた、ものの見え方を探究していたのでしょう。

 

そして!ゴッホの描いた絵を見た私達は、ゴッホの目を手に入れることができているのではないでしょうか。

 

世界の見方、感じ方の再定義は、アートが果たす重要な役割の一つです。それは見るものにとって、同じ場所にいながらも新しい世界を体験させてくれるものですし、描くものにとっては、終わりのない探究の旅です(アートって、正解が無いとよく言われますが、それは、答えが一つではないという意味で、答えを求めないわけではない。むしろ、探究者にとって納得できる答えを探しつづける、終わりのない旅なんだと思います)。時に超個人的で、時に爆発的に影響を与えるアートって、怖くもありますが、とても魅力的なものでもありますね。

 

#STEAM #アート教育

ビジネスにもアート!

アートは、サイエンスからのジャンプだ。ということを、前回書きました。分野や職業に関わらず、すべての人がアートの力、すなわちサイエンスからジャンプする力を身につけることで、世の中はもっともっと面白くなるのではないでしょうか。

 

例えば、ビジネスにおいてアートの力が発揮されるとは、どういうことでしょうか。

 

物語仕立ての企画書が、経営陣を動かした

1999年にスープ専門店「Soup Stock Tokyo」を立ち上げた遠山正道さん(現株式会社スマイルズ代表取締役社長)は、当時日本に無かったスープ+パン、スープ+ごはんという、スープをメインとした食事を提供するお店を作りたいと思い、当時勤務していた企業の新規事業として上層部に提案します。その際に事業計画書とともに提出されたのが「1998年スープのある一日」という22ページにわたる物語仕立ての企画書です。

 

「1998年 スープのある一日」は、1997年の12月に書かれています。1998年という、近い未来の設定で、Soup Stock Tokyoの店舗がある世界で、誰がどんな風にお店に来て、スープを飲み(食べ)、何を感じているかが、具体的に描かれています。物語の前半はユーザー目線、後半では、どんな場所にどんなお店がつくられ、どのように事業が展開していくかについて、事業者目線で描かれています。これが決め手となり、事業が実現します。

 

Soup Stock Tokyoは、遠山さんがファーストフード業界を経験し、調べるうちに「どうしてこうなっちゃうの?」と感じるようになり、そんなときある日突然、女性がスープをすすっているイメ―ジが降りてきたことが始まりだそうです。それをきっかけに具体的に描かれた「スープのある一日」を読むと、現在のSoup Stock Tokyoで実施していることがたくさんあることに驚かされます(遠山さんのご著書「スープで、いきます―商社マンが、Soup Stock Tokyoを作る」で全文が公開されているので、ぜひ読んでみてください)。

 

新しいビジネスには、新しい絵が必要

Soup Stock Tokyoが実現するまでには、2つのアートの力が発揮されています。一つは、現状(この場合はファーストフード業界)認識とその分析というサイエンスからの、思考のジャンプ。もう一つは、まだ世の中には無い新しい景色を一緒に見てもらうための表現力です。世の中にまだない、新しい事業を進める際には思いもよらない事がたくさん起こるでしょう。実際、Soup Stock Tokyoを立ち上げ、店舗を増やしていく過程には、たくさんの困難があり、飲食業界の方達から、経験に基づいた(!)多くの指摘もあったそうです。でもやっぱり、新しいことを実現するには、降りてきたイメージを大切にし、新しい絵(例えば実現したときのイメージ)を描く必要があるんじゃないかな!と思うのですが、いかがでしょうか。そして、それがあったからこそ、困難を乗り越え、今のSoup Stock Tokyoがあるのではないでしょうか。かなりの頻度でSoup Stock Tokyoを利用する私も、遠山さんが描いた絵(物語)の中に入っているのなら、うれしいなと思います。

 

今回ご紹介したSoup Stock Tokyoのストーリーは、ビジネスにおいてアートの力が発揮されるシーンの1つだと思います。これはどの業界でも見られそうです。もしイメージが降ってきてもそれが実現しない状況があるとしたら、イメージを得た本人がそこに向かわないか、「経験値が高い」周囲のアドバイスがそれをねじまげてしまうか、そんなことが、起こっているのかもしれません。

以前お話しさせていただいたことがありますが、 遠山さんは、面白いこと、感動することに、真っ直ぐな方だと感じました。そんなお人柄も、アートの力と関係していると思います。

 

参照:

「スープで、いきます―商社マンがSoup Stock Tokyoを作る」 新潮社

 https://amzn.to/30K3prX

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#STEAM #アート教育

2020年。アートは、ジャンプだ!

あけましておめでとうございます。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

このブログは、教育にアートが足りていないという思いから2016年にスタートし、4年間で113の記事を書いてきました。本やアートに関する面白い人や活動を紹介する中でたくさんの発見がありました。

 

で、色々な役割があるアートって、一言であらわすと何か?

私は「ジャンプ」だと思っています。

 

サイエンスとアートは、協働する。

この言葉は、昨年11月に行われたEdvation x Summit 2019 でのパネルディスカッションにおいて、LOVOTの開発者である林要さんの発言にあり、これだっ!とものすごく腑に落ちました。林さんによると、サイエンスは答え”をしっかりと積み重ねている領域なので、一つひとつ証明されているものしか使えない。だから、スピードは遅いが、そこに“アート”が入ると、「ジャンプ」が起きて、証明がなされていないが真実かもしれないものをかなり早い段階で取り込めるそうなんです。

 

キュレーターの長谷川祐子さんの著書「『なぜ?』から始める現代アート」にも、同様の表現があります。第三章「アートが科学を超えるとき」では、人間の知覚について、まだ科学で証明をされていない部分(例えば光の色の違いを皮膚から感じとれるか)を、アート作品として問いかけ、鑑賞者に感じてもらうアーティストが紹介されています。解が一つでなければならない科学に対し、アートは鑑賞者がそれぞれの解を持つことができる、という違いがあるからこそ、アートでしか表現できないことがある、というのは、非常に興味深いですし、これも、ジャンプというべきものでしょう。

 

このお2人の発言からは、サイエンスでカバーできない領域をアートが補うことの価値を感じます。サイエンスとアートは、相対するものではなく、協働するものなんじゃないかな。

 

自然科学にとどまらず人文科学、社会科学、それにまつわる事実や数値に裏付けられたものたち(サイエンス)をつなげ、その先に新たな到達点をつくり、そこに向けて、自ら線を描く行為をアートというのではないでしょうか。それは論理の飛躍とか、勘(かん)と揶揄されることもあるかもしれないけど、そこにサイエンスを組み合わせていくことで、進む研究やイノベーションもあるはずです。

 

 

「どこでもドア」というアートを、サイエンスで実現する。

例えばドラえもんに出てくる「どこでもドア」。描かれた当初、科学的根拠は薄かったと思います。でも、扉をあけたら世界中のどこにでも行けるという機能は、大人も子どもも、多くの人を魅了し、漫画というアートの中で、夢を膨らませることができました。そして今、インターネットの発達により、Web上でのオンラインミーティングや、遠隔操作ロボットが登場し、どこでもドアにかなり近い形が実現しています。それは、もしかすると「どこでもドア」というアート作品が起点となってるのかもしれませんよ。

 

歴史小説や、実際に起こった出来事をベースとした小説にも、アートの力を感じます。新聞記事や研究書であれば、わかっていること以外は記せないのですが、小説は、事実をつなぎ、記録が無い部分を創作で補うことで、ストーリーを成立させていきます。印象派の画家たちを多く描いている作家の原田マハさんは、画家たちの足跡をたどりながらストーリーを膨らませ、19世紀を生きた画家たちを、とても身近なものに感じさせてくれます。

 

論拠は薄い。その世界に飛び出し、何か形にして見せるというのは、勇気がいることです。でも勇気をもってジャンプできたら、ますます世の中面白くなると私は思っています。

この勇気がどうやったら出てくるのかについては、次回、書いてみようと思います。

 

参照:

林要さんのパネルディスカッション

https://lovetech-media.com/eventreport/20191107edvation1/?fbclid=IwAR27bjrvEAlNf0h44VtPAV4QYuXIrhT8gjkMkhkqZH72DpDDwSgDi84Bym4

 

「なぜ?」から始める現代アート(NHK出版新書)

https://amzn.to/39WNTgk

 

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LAVOT。人の動きに反応し、抱き上げると体温も感じられる。

清水葉子

 

#STEAM   #アート教育

北欧の図書館から、これからの学びの場を考える

みなさまこんにちは。清水葉子です。突然ですが、みなさんは公共図書館をどのくらい利用されますか?そして、その利用目的は何ですか?

私は、公共図書館の徒歩圏に住んでいることもあり、年間5回か6回、つまり2か月に1回くらいは利用しています。その目的は9割がた、インターネットで本を予約して、その予約本を受け取りに行くというものです。(横浜市の図書館は、そこになければ市内の他の図書館から取り寄せてくれます)。小学生の娘と年に1回くらい行きますが、彼女は学校図書館で満足しているので、あまり利用していません。1回の滞在時間は手続きだけなので、5分くらいでしょうか。

 

前置きが長くなりましたが、最近「フィンランド公共図書館 躍進の秘密」という本を読みました。私が知っている図書館の活用方法と色々異なる点があり、面白かったので、紹介させていただきます。

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 http://www.shinhyoron.co.jp/978-4-7948-1139-4.html

 

 

まず、驚いたのは、図書館の利用率です。フィンランドの人口は、約551万人(外務省より2018年12月末時点)なのですが、図書館の利用率はのべ5000万人!!!(本書より、2018年のデータ)国民1人あたり年間10回の利用です。また、貸出数は8500万点で、1人当たり年間15冊超え(本書より、2018年のデータ)とのことでした。ちなみに、調べてみたのですが、横浜市の人口は、約375万人(自治体HPより2019年のデータ)なので、ざっくりフィンランド全体の7割。横浜市の2018年度ののべ入館者数は、約743万人で、1人あたり2回の利用、貸出数は約893万冊で、一人あたり、2冊強でした(図書のデータは、「横浜市の図書館 2019」より2018年度のもの)。

 

私は、横浜市民としては図書館を利用しているほうで、フィンランドの人と比較すると、利用していないようですね。

 

この理由として、いくつか日本と違う状況があったので、本書より、箇条書きで引用させていただきます。

 

学校図書館を、公共図書館で代替している場合もある

・図書館が、生涯学習の機会提供の場として機能している

スマートフォン、PC等の利用サポートがある

・移民のためのサポートがある

・一部の図書館には、メイカースペースや、音楽スタジオもある

・コンピュータゲームができる図書館も多い

・工具など、家庭で使用頻度が低いものは、図書館で借りれば良いという考え方がある

・貸出手続きなどはセルフで、司書は利用者の相談対応に時間をかける

 

これを機会に、同じく著者の吉田右子さんが書かれている

「読書を支えるスウェーデン公共図書館

http://www.shinhyoron.co.jp/978-4-7948-0912-4.html

デンマークのにぎやかな公共図書館

http://www.shinhyoron.co.jp/978-4-7948-0849-3.html

「文化を育むノルウェーの図書館」

http://www.shinhyoron.co.jp/978-4-7948-0941-4.html

 

を読んでみたのですが、違う部分もありながらも、生涯学習の拠点であること、図書という枠にとどまらず、文化、情報全般のサポートをしていること、結果として移民、子ども、お年寄りも含む、全ての人たちが、とりあえず図書館に行って相談してみよう、という流れができていること、図書館自体が、文化的な拠点となるため、利用率の向上を目指していることがよくわかりました。

 

これらの国は、フィンランドノルウェーデンマークの人口が500万人台(ざっくり、横浜市川崎市の合計人口くらい)、スウェーデンの人口が1,000万人ちょっと(東京都の人口よりちょっと少ないくらい)なので、経済規模が違い、メディアやスタジオレンタルなど、ビジネスとして成立しにくいところを行政でカバーしているのかもしれませんし、行政サービスを分けずに、図書館に集約するという流れがあるのかもしれません。でも、細分化しすぎず、図書館が文化というフィルターで包括することで、とりあえず相談できる場所となり、大人になっても学び、仕事の拠点となることが、できるのかもしれないと感じました。紙の書籍から電子書籍に移行し、図書館の利用方法も変わっていきそうですが、図書館が無くなるのではなく、司書の方達のあり方や、場の作られ方が変わりながら、図書館が必要な場として残る可能性も大いにあるんだなあと感じましたし、そういう機能として求められる図書館であれば、私は運営に関わってみたいと思いました。

 

生涯学習も含めた、これからの学びの場について考えたい方には、ご一読をお勧めします。「フィンランド公共図書館」には、昨年開館したオーディ図書館についても詳しく紹介されていますよ。

 

北欧の図書館についてとてもわかりやすくまとめて紹介してくださった、著者の吉田右子さんに感謝いたします。

 

#学びの場 #フィンランド公共図書館  #オーディ図書館