アートにおける、手の役割

頭に浮かんだイメージを取り出そう

頭に浮かんだイメージを取り出すことも、アートの重要な役割です。

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その表現は平面、立体、文章、映像、音楽など様々で良いと思いますが、とにかく頭の中のイメージを取り出してみると、色々なことがわかります。

 

私は脳や知覚の専門家ではないため、経験上おそらく、ということしか言えませんが、アイディアをいったん自分の体から切り離して眺めることで、客観的になり、様々な角度から見る事ができるようになるからでしょう。例えばイメージしきれていなかった部分に気が付き、手を加える必要も出てくるでしょうし、全部壊して作り直すのもありです。

 

アートやデザイン、建築の世界では、こうした作業を「スタディ」と言います。「学ぶ」と同じ“study”です。例えば、 建築の模型の中でも、つくりながらその形を決めていくためにつくる模型を「スタディ模型」と呼んだりします。手を動かしながらイメージを形にしていく、そのプロセスこそ学びというのかもしれません。

 

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目と手の乖離をどうとらえるか

この「まだ全体が定まらないけどとりあえず形にして手を加えてみる」という行為を、難しいと感じる人が一定数います。イメージは無いわけではないのに、いざ自分の手で何かを作ってみようとすると、うまくいかない。目と手が、こんなにも乖離しているなんて。。。

 

この衝撃的事実に気が付いた時に、見なかった、または気が付かなかったことにして、受け手、評価者の役割に回ってしまう人もいます。誰かがつくってきたものには、もっともらしい意見を言い、改善策も提示できるのに自分から「スタディ案01」は絶対に出さない。

 

こういう話を聞いたり、そういう場面に出くわすたび、私は強く思う。それは本当にもったいない。本人も、周りも、絶対に損をしている!と。

 

こうなる理由はいくつかあると思われますが、その一つに「最初から高いクオリティを求めてしまう」ということがあると感じます。色々なメディアを通して、ものすごい量の情報にさらされている私達は、知らず知らずのうちに、かなりモノを見る目が育っています。瞬時に良いものを選ぶことができ、それらしい評価をすることもできる。だから、自分のことも同じ目で評価し、手を動かす価値なんてないと思ってしまう。

 

でも。私達が見ているハイクオリティなモノたちは、最初からハイクオリティだったわけではないんです。それらが辿ったプロセスは様々で、時にはそのプロセスがとてもまっすぐだったように見えるかもしれないけど、ほとんどの場合、そこにはたくさんの寄り道や失敗や試行錯誤があるし、そうやってたくさんの無駄の中から選ばれた一つが、時間をかけてクオリティを高められているのです。それが自分で手を動かして作ったことがある人にはわかるし、見えるようになります。目と手の乖離は誰にでも起こることだと認識し、つくりながら、手と目が対話を繰り返していったらいいんじゃないかなあ。それに、知らない誰かが作ったハイクオリティなものより、自分がつくったもののほうが意外と自分には良いもの(デザイン的にも機能的にも)だったりするものです。

 

手触りのある実体がひらく可能性

そして、あなたの頭の中にあるイメージは、あなたが取り出してくれないと、見る事ができません。そして、あなたがそれを取り出してくれたら、それはあなただけでなく、みんなで見ることができるし、お互い見せ合うこともできます。

 

それは、2次元で良いのか、3次元が良いのか。最初に書いたように、基本的にはどのような形でも良いと思います。PC画面の中だけでなく、手ざわりのある実体として存在していることの効果もありそうです。昨年の4月にこのブログでご紹介した本「FABに何が可能か」では、何かをつくり「見える化」「触れる化」することで自分の思いを整理し、人と議論できるようになり、ものづくりには製品開発でも作品制作でもないもうひとつの可能性があると、田中浩也先生が書かれています。手はつくるだけでなく、触れるという行為でも、重要な役割を果たしていそうですね(清水葉子)。

 

 #STEAM #アート教育